■ 色づいたさくらの葉とともに霜月にお別れ

[ぞうさん/ぞうさん/おはなが ながいのね]
群馬交響楽団の11月定期コンサートの解説で、団伊玖磨のある言葉が紹介されました。「私の著作権料の中では、『夕鶴』などほかのものを合わせたより、『ぞうさん』が一番多いんだよ。」と言って、アハハと笑ったというのです。ぼくのなかで『夕鶴』は、原作、オペラともに近代日本の文学・音楽のなかで第一席を占めているものなのです。「与ひょう、わたしを忘れないでね。わたしもあんたを忘れない。」のアリアをこれまで何度口ずさんできたことか。そんな『夕鶴』より童謡『ぞうさん』の方が収入源として大きいというのは、団伊玖磨ならずともアハハと笑うより仕方ないものではあります。
その『ぞうさん』はぼくの幼稚園で,園児が最初にうたう歌です。入園式の中で、園長の式辞・理事長の祝辞で緊張した園児の気持ちをほぐすために、先生たちが園児の中に入ってみんなで歌うのが『ぞうさん』と『ちゅーりっぷ』です。全国で歌われているのでしょうか。
    その『ぞうさん』について、作詞者のまどみちおがおもしろいことを言っています。「ぞうさん、お鼻が長いのね」というのは、「おまえは変なやつだな」という意味になるというのです。たしかに今の大学生気質として、皆と同じでないと不安だ、自分が集団の中で孤立するのはおそろしいと考える傾向が強いといわれます。小学生のいじめの原因も、他とちがっていることが挙げられることが多い。おまえみたいに鼻が長い奴はほかにいないぞ、といじめの口実にされかねないのです。
ところが、この子は「そうよ かあさんも ながいのよ」とはねかえす。どうだ、いいだろうという自信の表明でやりかえしたことになるというのです。この子はお母さんが大好きなのでしょう。お母さんと一体感が持てることが、マイナスの状況を乗り越える力となる。母親の存在の大きさが再認識されるというのです。
母親は子どもにとって心の基地であるといわれます。同じように父親も子どもにとってスーパーマンとなる時期があります。ただ母親の方が永続性があるようですね。これも群馬交響楽団の話になりますが、合唱指揮をしている音大の教授が、ある時しみじみと述懐しました。「私も息子にとってスーパーマンだった。何でもできて、何でも応えることができた。それが次第に色あせてきて、今は『親父は何にも知っちゃいねえ』となってしまった。」と。聞いていた皆はアハハと笑いましたが、これは突き放した笑いではなく、身につまされる所からくる共感の笑いだったと記憶しています。子どもたちはそうやって自立の道を歩いていくのでしょう。
じつは、ぼくは「お鼻が長いのね」がいじめにつながる言葉と読んだことはなかったのです。いじめに関するアンテナの感度が鈍いのでしょうか。ぼくとしては、かねこいすずの「みんな違ってみんないい」の見方に立っているゆえに、「鼻が長い」にそういう要素をみとめないと言いたいと思っていますが、甘いのでしょうか。

[逆上がりへの挑戦]
    本庄東幼稚園の門の両側に山茶花があって、今見事な花を咲かせています。いよいよ冬本番の到来です。この季節になると、毎年年長児が熱をもって取り組むのが鉄棒の逆上がりと縄跳びの1拍跳びです。クラスとして取り組んでおり、そうなると、さらに熱が入って、お家でも練習するらしく、達成率が高くなってきています。現在クラスで〇%がなどというと、余計なプレッシャーをかけてしまいそうなので言いませんが、できた時の嬉しそうな顔はいつも感動的です。しかもこの姿が年中児にも影響を与えており、年中児で逆上がりをマスターした子が何人もいます。集団生活の力だなと、応援しています。

[観劇]
11月28日、本庄東幼稚園のホールに集まっって、劇団灯の公演を鑑賞しました。人形劇、影絵劇、ミュージカルなどの年もありますが、今年は、演劇でした。、西瓜畑で明日の出荷を楽しみにしているおばあさんと、大きな籠を担いで侵入した西瓜泥棒とのドタバタ劇で、何かが心に残ったかと考えると、今一つ物足りないものはあったのですが、園児たちの反応はまた別でした。園児たちは夢中になってお婆さんを応援し、泥棒が西瓜を抱えて籠に入れようとするたびに「ダメ―」と叫ぶ。しかも場面が転換すればシーンとなって集中する。その反応に劇終了後、泥棒とおばあさんは、「こんないい反応を示してくれた園児さんはほかにいません。」と最大級の賛辞を示してくれました。「園によってはわーっと盛り上がるとそのまま収まらず、出演者はもう流れにながされるしかありません。昔は対抗して大きな声を張り上げたりしましたが。」とも話していました。普段、相手の話はよく聞こうねと事あるごとに話しかけている先生たちの指導が実を結んだと言っていいでしょう。最後、泥棒が謝って終わるのですが、終了後、悪いことしちゃだめだよと諭してくれた園児さんがいましたと、男優が笑いながら紹介してくれました。
ただ、人形劇などと違って、生身の人間の演技は迫力があります。最前列に座っていた年少児の何人かは、泥棒の姿に泣き出してしまいました。滑稽な赤ら顔にメイクアップしていたのですが。これもまたいい経験になったかと思います。

    霜月の終わりを迎えるある朝、園庭でひとりの年少児がやってきて、「りじちょうせんせい、・・・」と聞き取れないほどの声で語りかけてきました。何度か確かめると「おくりもの」と言っているのです。園庭の桜の葉を集めていて、そのうちの1枚をプレゼントしてくれたのです。こころがほかほかとなりました。寒い冬を乗り切れそうです。


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■ 子どもの幸福って

[夜寒の季節]
  秋祭りの太鼓の練習の音が聞えてしばらくすると、夜寒の季節になります。縁側で秋の陽ざしを足の先だけに受けて、本を読んだ子供のころを懐かしく思い出します。その秋まつりも終わって10日が立ちました。園児たちも何人も祭りに参加しました。遠い記憶の中では、昔は幼稚園児は参加できなかったようです。もう屋台囃子を叩くようになってからでしょうか。銀座通りから中山道に出る角を曲がる時の、ぐっと山車ごと傾いた感触をおぼえています。ふだんの餓鬼大将が、鼻筋に白粉をぐっと引いて、そのりりしい姿に見とれたことも。

[子どもの幸福って] 
 学生時代の同級生で、中国の大学で日本語を教えていた男がいました。同窓会で会ったりしたとき、向こうの様子を聞いてびっくりしたことがあります。
都市部と農村の格差の大きさはその一つで、それはぼく自身の体験から感じ取ったものと近いものでした。もう20年も前に中国を訪れた時の話ですが、西安の町で朝になるとおびただしい数の職を求める人々が集まってきて、職種別に集団となり、どこかへ向けて出発していく。残った人たちの中には「水道工事(ができる)」とかの自分を売り込むプラカードをもってたたずんでいる人がいたりしました。これは日本の高度成長期、農村から都会へ人々が出てきたときの情景と同じではないかと思ったものです。同級生の話では、今は農村から出てきても都市に定住することはできないようになっているとのこと。都市部と農村部の格差は固定化されてきているのでしょうか。
 もう一つ驚いたのは、中国の都市部では幼児教育というと受験勉強だということでした。一流大学を出て一流企業に入りエリートとなるためには幼稚園から勉強漬けにならざるを得ないということなのだそうです。一人っ子政策が、そういう状況をエスカレートさせているとも言っていました。

 実はこのたび、知人から「中国メデイア‐サーチナ」というサイトを紹介されました。中国のメデイアの中から、いろいろな部門ごとに関連する記事を集めて、日本語に翻訳したもののようです。その中に幼稚園関係の記事もいくつもありました。これが中国の幼稚園の状況をトータルにとらえているかどうかはわかりませんが、上に述べたことが現在さらにエスカレートしていると思わせるような記事がありました。その中の一つを紹介します。
   
   人口が多い中国は日本と同等以上の競争社会だ。都市部の親たちは「子どもたちをスタートラインの時点で  負けさせるわけにはいかない」 と口癖のように語り、子供に勉強をさせ、習い事をさせる。それゆえ幼少の  ころから勉強漬けの毎日を過ごす子どもは多いと言われる。

   記事はまず、日本の一般的な幼稚園を紹介し、運動の時間には「側転」や「跳び箱」、「逆立ち歩き」と   いったことも教えている写真と共に紹介。もし中国でこのような教育がなされていたとしたら、保護者の怒り  を買い学校に対し苦情が出ることや、教師が保護者から攻撃される可能性があると紹介した。
  
   一方で記事は、中国の子どもたちについて、ある小学校で開催された運動会では始まって1時間もしないう  ちに20人もの子供たちが倒れてしまったことがあることや、中国の18歳以下の肥満児は1億2000万人  もおり、12歳から18歳の子どもたちのうち1.9%もの子どもたちが糖尿病を患っていると紹介。学歴社  会が子どもの健やかな成長に悪影響を与えていて、知識を詰め込む形の教育を重視するあまり、子どもたちの  健康面の成長が疎かになってしまったと指摘し、「国が強くなるには子どもたちが強くなる必要があるよう   に、子どもたちが弱くなれば国も弱くなってしまう」と危機感を示した。

 紹介は以上です。中国が一人っ子政策をとった結果として、女の子が生まれると他人に任せて、新たに男子が生まれることを期す、という話も聞いたことがありますが、その裏として、男の子は王子様として甘やかされ、勉強の成績がよければすべてが許されてしまい、社会的モラルや責任が育たないまま大人になっていくと聞きます。
 今月の始め、玉原高原に出かけました。写真は玉原の見事なブナ林です。冬は山スキーで好きな方向に歩き回ることができます。
 今回、ブナ林から湿原に降りてきて、目を疑うような景に出くわしました。草紅葉の湿原に、木道から離れたところで若い男女が写真を撮ってはしゃいでいるのです。ぼくたちは離れた木道に立ち止まって睨みつけました。「そこに入ってはいけないんだろうが!」と思わず叫んでしまいました。彼ら彼女らはぼくらの姿に気付くと木道に戻りました。湿原の出口で休憩したぼくたちの後から姿を現した彼らは中国語を話していました。君たちは貴重な自然を守ろうという最低限のモラルを持っていないのかと注意したかったのですが、万一刃物で逆襲でもされたらと、臆してしまいました。彼らは我々に曖昧な笑みを浮かべて去っていきました。
 日本に観光に来る人々は裕福な階層に属しているのでしょう。すべてが許されるという感覚で成長してきているとしたら、日本の規範やモラルを誰が教えればいいのか、考えさせられた日でした。

 話がそれましたが、中国の子どもも日本の子どもも自分で自分の置かれる状況を選ぶことはできません。勉強漬けの毎日を選ぶか、体力や感性や人間関係を涵養する状況を選ぶか、それを選択するのは本人ではなく保護者です。岩田学園で過ごす子どもたちが生き生きとして幸福そうであること、卒園後も懐かしく思えるような日々を送っていることそれを見ると、保護者の方たちの選択と子どもたちが求めている在り方とがぴったりあっていることが確信されます。幼年少年期に充足した生活体験をした子どもたちが、その後大きく成長していくことが多くの研究で明らかになっています。
 それに関連する話ですが、この「中国メデイア‐サーチナ」を紹介してくれた知人の友だちで、東大出身の男がいて、先日亡くなったそうですが、その男は「オレには一緒にいたいと思うような友だちなんていなかった」と述懐したそうです。貧しい生涯だったなあとおもいます。そればかりではありません。そういうキャリア組が日本の政治を担い、教育を方向づけると考えるとなんとも心寒くなります。かつて中央教育審議会の会長が、「教育は全員のレベルを上げるなんて考えなくていい。必要なエリートを育てれば十分だ」と言ったことがあります。キャリア組の言いそうなことです。そういう権力にノンを突き付けて行かなければ子どもたちが可哀想だとと考えます。
 


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■ 病室の窓より逃げて秋雲に乗りたき思い山近く見ゆ

 少し身体を痛めすぎてしまいました。その原因となった嬉しい出会いがあったのです。今日はその話から。
 ぼくの主催する古典を読む会は16年前『奥の細道』から始まりました。抜粋でなく全部を読もうという方針なので、『平家物語』などは8年もかかりました。熱心なメンバーのおかげで、ぼく自身が常に新しい発見に心を踊らされています。
 そのメンバーの一人に、理系で、博士号を持っている異色な男がいます。或る時、話をする機会があり、大学の組織・権威・権力に及んだことがありました。その中でぼくの考え方に何かを感じたのでしょう、「岩田さんは〇〇を読んだりしましたか。」と聞いてきました。〇〇はぼくの青春の証しとなっている作家です。あまりに速く走りすぎて、若くして亡くなってしまいました。理系の男も同じ経験をしたようです。どの作品がいいかの話になった時、二人は別々な作品を挙げたのですが、彼が挙げた作品は、実は僕もそれがと言いたくなるものでした。何日かして、彼は「〇〇について話ができる人に逢ったのは初めてです。」と打ち明けてくれました。彼も少数派で屈折した青春を経たのでしょうか。ぼくにとってもうれしい出会いでした。
 
 2学期に入って、彼のあげた作品をもう一度読み始めました。そしてたちまち夢中になりました。どうしても睡眠時間を削ってしまうことになります。運動会前の2週間、そんな日が続きました。
 そして、運動会当日を迎え、何となく体が重いという感覚がありました。ただ、ぼくは体力には自信があるはず、これまでも同じようにやって来たという、自己暗示をかけながらシャッターを押し続けました。合計1500枚のスナップを撮りました。後半足がよたよたとなって、はずかしい姿となりました。前号に書いたように、左足の親指にマメができたことも一因ではありました。終って、テントの天幕やポールなどを、トラックの荷台で下から受け取って並べていた時、力が出なくなっていたのがわかったのでしょうか、ひとりのお父さんが見かねて、「理事長先生、私がやるよ。」と代わってくれました。「大丈夫ですよ。」という元気はもうありませんでした。

 これは、ぼくが自ら責任を負わなければいけない不摂生のたたりでした。ただ、好きな本に夢中になって睡眠時間を減らすということは、ぼくにとって決して悪徳ではなかったのです。そういう機会を持つことは、読書人としてむしろ栄誉なことだという思い、それが昔からありました。だからそれは不摂生ではなかったのです。それが今回、自らの責任として帰ってくる不摂生となったのは、ひとえに年齢によるしっぺ返しだったのだろうと思います。あの日、運動会を見に来ていたある人は、ぼくが入院したことを知って、「もうあんなに動き回る歳ではなかろうに」と諫言をくれました。ぼくの中には、前もってあんな不摂生をしていなければという思いがまだあります。

 2週間入院して帰宅したら、秋が深まっていました。ホトトギスはもう盛りを過ぎており、鉢の銀杏はま黄色に色づいていました。残ったアケビをもいで、皮をスライスし炒めて食べました。秋の味がしました。
  


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■ 秋―運動会、果実酒、そして物思わしめる季節

[運動会スナップ撮影への思い]
 運動会の前の週は秋雨前線に祟られてグラウンド練習が一日も出来ず、担任の焦燥が募りました。運動会の週になって最後の仕上げのようにグラウンドが使えました。当日も秋晴れの天気。嬉しかったです。
 開会式で園長は、「今日まで園児たちが楽しみながら意欲をもって練習できるように、先生たちは配慮してきました。練習が訓練になって運動会が嫌いにならないようにという方針できました。」とあいさつしました。園児たちは心を躍らせてこの日を迎えたことがはっきりと見てとれました。
 当日、理事長は開会式から閉会式まで、ファインダーをのぞき続けました。グラウンドでは立ったままでは見ている人たちの邪魔になるということで、何十回スクワットを強いられたでしょうか。園長に就任したころは何ということ無かったこの配慮が、78歳になった今年は少々応えました。1年に一度の姿勢、片膝立ちから立ち上がることを反復する中で、親指の裏にまめができて、痛みを気取られまいと気を使いました。
 今年心掛けたこと、特別今年だけではなかったのですが、意識的に心がけたことがありました。ご両親やお家の方からすれば、本人の表情をしっかり見たいという思いがあるでしょう。1人だけのショットはそういう思いに応えるものです。でも、今年は、二人或いは集団の中での姿をねらいました。親子競争でのお父さんお母さんと自分、手を引いてくれたお兄さんお姉さんと自分、クラスのお友だちとペアになった自分、クラスという集団の中で必死に頑張っている自分、それはいつか何年、何十年たった時に、他者(お父さんお母さんを他者と呼ぶのは失礼ではありますが)とこんなふうに関わったという証になると思ったからです。以前のこのコラムに書いたように、お父さん・お母さんと一緒のショットは、外の世界へのガードを全く放棄して、ありのままの素顔で結ばれている、それをはっきりと示している、それは考えれば当たり前のことでしょう。それでも、その当たり前をここに定着することの意味は大きなものであると思います。
 また、お友だちと何の思惑や打算をふくまない結びつきを示している表情、大人になるとそんな表情で結ばれる人間関係は稀有になります。岩田学園の教育方針の中に、「お友だちは、一緒に成長していく存在です。蹴落とすか蹴落とされるかという生存競争の中のライバルではありません。」というのがあります。いつか孤独に陥ることがあっても、人間に対する信頼感だけは失わないでいられるようにという願いが込められています。運動会でのお友だちとの写真、クラスの中で必死になっている写真。いつの日かこれらが君たちを支えてくれる日が来るかもしれない、ファインダーをのぞく理事長の心にそんな思いがありました。
 閉会式の園長のあいさつの中に、「2学期が始まってから長い日々の中、皆さんは本当によく頑張ってきました。」という一節があり、そこで担任の中に涙をぬぐう姿が見られました。長い日々の中、成長したのは園児だけではありません。先生たちもかけがえのない大切な思い出を手にしたのでした。

[秋の贈り物]
 庭の辛夷が点々と赤い実をつけて秋の日に輝いていたのが、この2・3日ひよどりに啄ばまれて消えてしまいました。慌てて、ひよどりの啄ばみ損ねて落とした実を拾ってホワイトリカーに漬け込みました。一年年後が楽しみです。わが命さきくあれ。
 柿の実がしばらく前から果物屋さんの店頭に並び、中には奈良産などと表示されていて、
   

里古りて柿の木持たぬ家もなし   芭蕉
を思い出させます。昔、婚礼の女性は柿の木を持参して婚家に植えた。自分が死んだとき、その木で荼毘に付されるように。そんな解説を読んだことがあります。自分の生涯を覚悟していた、すごい句だとおもったものです。
 我が家でもようやく柿が色づいて、運動会の代休の日に収穫しました。
   
柿食ふや遠くかなしき母の顔     石田波郷
 「かなしき」は悲しきではなく、愛しきでしょう。柿は子どもの頃を思い出させる郷愁の果物でもあります。
 本庄西幼稚園のアケビも色付いてきました。アケビは「開け実」だと教えてくれた先輩を思い出します。運動会に応援に来てくれた体育講師は、幼稚園に戻った時にみつけて「なつかしい」と呟きました。子どものころ山で食べて以来はじめてだといいます。ぼくの「どちらのご出身なの?」の問いに「岩手の北上市です。」の答え。啄木が身も世もなく恋い焦がれた故郷です。
    やはらかに柳あをめる北上の岸辺目にみゆ泣けとごとくに
    かにかくに渋民村は恋しかり思ひ出の山思ひ出の川
 頑丈そのものの体育講師の心の中に、啄木の心が流れているのでしょう。秋は物思わせる季節でもあります。


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■ 長月は秋雨前線の月

[おもしろい名前に気付きました]
 群馬交響楽団の9月の定期演奏会は、エルガーのオラトリオ『神の国』でした。キリスト教に門外漢であるぼくでも、うそつきだという言葉が相手に致命傷となる文化は、すべてを神が見ているというところから来ているということが背景にあると知ると、平気で嘘をついたりしらを切ったり、都合の悪い文書を無いと言ったり改ざんしたりする政治家を持つこの国の在り方を、否応なしに思い浮かべて、なんだか救われようのないような気になったりします。
 『神の国』は初めて聞く曲で、原語が英語だということで、少しはわかるところもあるかとはかない期待を持ったのですが、古語がいっぱいで全く分かりません。パンフレットに原詩と対訳があって、暗い照明の下で目を凝らして読んでいきましたが、すぐに諦めて合唱の響きと音楽の流れに身を委ねました。第3部と第4部との間に休憩があって、その時パンフレットを読み始めて、おもしろいことに気付きました。
 それぞれの歌の頭に、誰の歌か名前がついています。ヨハネ、ペトロ、マリア、マグダラのマリア、使徒たち、信じて従った婦人たち、人々、等々、それらが英語でどう表記されているかです。まずペトロはPeter。え、これはピーター或はペーターではないか。「ピーターと狼」或はぺテルスブルグ(Burgとは城塞都市を意味した言葉です)のPeterはペトロをとった名前だったのか。そう思ってヨハネを見ると、Johnとあります。JAPANはドイツ語でヤーパン。Johnはヨハネとよめます。ヨハネは英語圏に入ってジョンになった。なんだか新しい発見をしたような気持で、マリアをみるとMaryとある。これはメアリだ。アメリカのメリーランドは処女マリアの名をとったのでしょう。
 ピーター、ジョン、メアリ、これらは英語圏のいちばんポピュラーな名前です。それらがキリスト教の大事な聖母や使徒の名を受け継いでいるということを知った驚きは、今日の音楽以上に僕にとっては大きな経験となりました。群馬音楽センターからの帰りの車の中で、ふだんはバッハやモーツアルトの音楽を聴くのですが、この夜はいっさい音を鳴らさず、新しい発見に興奮していました。
 信仰が日常生活の中に生きている。それは文化と呼べるものだろう。現在の日本人は、自分の生命を分けて誕生した我が子に、ほかの人には読めないような名をつけることがはやっている。これも一つの文化であろうか。太郎、次郎、花子、良子・・・それら一時期日本人にとってポピュラーだった名前も、別に信仰や思想と関係ある名前ではない。八幡太郎義家などはある願いや願望のもとに生まれた名前であろうけれど、それを名乗ることのできるものは限られていた。或は『平家物語』に登場する河原太郎・次郎(「我らが討ち死にしなければ所領は安堵されない」と言って、一番乗りを声高に叫んで討たれていく。ここを読むといつも涙が出てきます。)も、長男・次男という意味以上のものを持ちません。
 毎日新聞は、「beatiful name」という小さなコラム欄に、世界の人々を一人ずつ登場させて、自分の名前の由来をしゃべらせています。ある人は祖国の英雄の名前をとり、ある人は何代も続く先祖伝来の名をつけられ、またある人は母親の望む徳を名のっています。人は自分の名に誇りを持ち、その名に恥じない生き方をしようとするでしょうか。逆に名前が重くなってしまう人もいるかもしれませんね。ぼくの名前の龍司というのも大げさなと思わないでもありません。

[運動会の練習とお月見と]
 2学期に入って始まった運動会の練習もようやく軌道に乗ってきた感じです。とくにクラス単位・年齢単位・全体での演技となるリズムやダンスなどは、どうしても見せるという要素が入るだけに、強制的な訓練にならないよう配慮し、楽しみながらやれるよう声掛けしながら進めています。先週から若泉グラウンドを使っての練習が始まりました。ホールや園庭での練習からいきなり何倍もある広いグラウンドに入って、はじめは戸惑う表情を見せた園児たちは、すぐに慣れて、帰りにはグラウンドの隅にあるマテバシイのドングリをうれしそうに拾ってきて、「理事長先生独楽を作ってください」と差し出したりしています。
 理事長は例によって朝グラウンドにラインを引きに行きます。今朝は心配していた通り雨が降っており、グラウンドの使用をキャンセルせざるを得ませんでした。
 昨夜はお月見でした。中秋の名月にはならず、薄く広がった雲に一部明るい部分があり、そこに満月があると分かる程度の月夜となりました。本庄西幼稚園には先生がススキを持ってきてくれたので、本庄東幼稚園には理事長が浅間山に採りに行ってきました。昨年の場所に行ったら、台風にやられたのかなぎ倒されて枯れてしまっていて、別の場所からのものです。先生が野菊とコスモスを加えて豪華にしてくれました。自宅にも団子(おてまるとお菓子屋さんは言っていました)を供えました。ぼくの子どもの頃は、近所の団子を先に釘を打った棒で失敬することが許されていたように思います。翌日学校でその成果を競い合ったことを覚えています。昔からの習俗だったのでしょうか。
 


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■ ひとつの挽歌

[いつの間にかもう秋 昨日は夏だった]
 立原道造の詩が浮かびます。あの酷暑はどこへ行ったのでしょうか。日本海にかかる前線は秋雨前線とのこと、詩人ならずとも、日本の秋の訪れは、人をもの思いに誘います。この季節、人生の一つの節目に当たる事象に遭遇しました。それへの思いに今僕はしみじみと浸っています。j人生の節目などと大袈裟な言い方をしましたが、ぼくにとっては大袈裟ではないのです。
 今月の始め、酷暑の中、パーゴラのフジがつるを長く伸ばし、電話線に絡みそうだったので剪定しました。そして一つの蔓が伸びている先のマンサクの木を見て思わず息をのみました。マンサクの花が咲いて href=”https://iwatagakuen.ed.jp/club/wp/wp-content/uploads/2018/09/IMGP2561.jpg”>いるのです。しかも枝いっぱいに花をつけています。真夏にマンサクが咲く! これは信じられないことです。でも実際に咲いている。ぼくは狐につままれた思いで、しばらく樹を見上げていました。そのうちふと気づきました。あ、これはかつてのモモと同じ現象ではないかと。わが家に熊谷農業高校の文化祭で求めた白桃の木がありました。店頭に並ぶような大きな実にはならないけれど、ナイフを入れた時の香りが高く、しかも冬至の日には夕陽がその枝の向こうに沈むので、ぼくは大好きな樹でした。ところが18年目、急に樹勢が衰え、実を一つも付けませんでした。そして半月ほどして、枝いっぱいに花をつけたのです。そしてそのまま枯れて行きました。あとになって、あれは桃ノ木が最後の力を振り絞って花をつけたのだろうとわかりました。切ない気持ちになったことを覚えています。
 今、このマンサクも、最期を迎えたことをさとって、自分の中に残るエネルギーを振り絞って最後の花を咲かせているのではないか。そう思って改めて見てみると、まず花の色が違います。シナマンサクなので、普通のマンサクよりもオレンジが濃く、渋い美しさがあったのですが、いま目の前に咲いているのは淡いイエローで繊細なのです。そのせいか、本来のシナマンサクのたくましさというか野性味がありません。ああこれが精いっぱいなんだなあ、もうこれ以上頑張らなくていいんだよと、思わず今心に呟いてしまいました。
 このシナマンサク、我が家と同じ歳を取ってきたものです。もう40年近くなるでしょうか。1年前から太い枝の一本が枯れ始めました。なぜだろうと不審に思って、根元の雑草を払ったりしたのですが、今思うとこの前兆だったのかもしれません。隣の畑を耕していた亡きFさんは、「この花は春の訪れを告げる最高の花だねえ」と語りかけてきたことがありました。お隣までこの木は春告げ鳥だったと、改めてわが家を見守り続けてきてくれたことへの感謝の気持ちでいっぱいになりました。いうなれば、ぼくの人生の後半を共に過ごしてきた、いわば伴侶だった木です。いろいろなことがあった。その流れに今一つの区切りがつけられようとしている、これから先、ぼくは春の訪れを何によって知るのだろう、そんな思いで、はなをみつめました。

 この懸念・危惧が来春裏切られてくれればいい、またあの茶色と言っていいほどの濃いオレンジ色の花をつけてくれればいいと、衷心から祈っています。写真上は活力いっぱいの頃のシナマンサクで、下が今月初めの信じがたい色の花、これまでと違う美しさの花です。隣の白い花はタラノ木です。

[悲しい事故が起こりました]
 プールの横のブロック塀が倒壊するなんて、その下を通ったあの女の子は想像することなどできなかったでしょう。同じ想像できないことであっても、責任を負っている立場の大人は、想像しなければいけなかったことです。とくに子供を預かる施設・学校であればなおさらのことです。児童憲章の前文に「児童は、よい環境の中で育てられる」とあるのは、目標としてうたわれているのでなく、現実に保証されなければいけない項目です。なんの過失もない子どもの命が奪われてしまう。しかも人的な不注意によるということであれば、怒りが湧くのが当たり前です。
 幼稚園にもブロック塀があります。業者が点検したところ、支えが必要になるとのこと。造った時点では安全基準を満たしていたのですが。その手当てが済むまで、いざという時逃げられるよう三輪車の立ち入りを禁じようということになり、いわたさんがプレートを作りました。北海道ではまだ余震が続いています。
少なくとも人災で犠牲者が出ませんように。
 明日は、業者によって総合遊具の点検補修が行われます。
 

 


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■ 記録的猛暑の夏です

[ホームページリニュウアルのこと]
 このたび、ホームページに手を入れました。じつは理事長コラムに掲載してきた園児の写真を削除したことを、この4月の本欄に書きました。その時気になったのが、ホームページ全体に同じく園児の写真を使っていたことでした。質的には同じ問題です。
 IWATA ALBUM については、パスワードをかけて、外部の方には拡大できないようにしてあります。そのうえで、「プライバシーポリシー」にのべてあるように、ネットワークから完全に切り離した環境で厳重に管理しています。改変等でアクセスできるのは管理者のみです。本人や保護者から離れて暮らしていらっしゃる、おじいちゃんやおばあちゃんに、保護者の方からパスワードの紹介があるにしても、それを越えた範囲には広がらないであろうと考えています。また、パスワードは1年ごとに変更しています。安全面に関して十分対応できていると考えています。もし、問題があるとすれば、集団を撮った写真でしょうか。園児はひとりでいる時より、お友だちと一緒の時にほんとうにいい表情を見せます。そういう映像の中に自分の子がいるという場合、不都合があったら申し出ていただくしかありません。よろしくお願いします。

 それに比べた時、ホームページに使われている写真については、やはり勇み足であったと考えざるを得ません。教育はお互いの信頼関係の上に成立しています。言い換えれば人間の善意を前提にしていると言っていいでしょう。そういう意味では無防備でした。何かあってからでは申し訳ない、そう判断して、園児の特定できそうな画像を削除しました。岩田学園の雰囲気を示してくれるものとして選んだものであるだけに、なんとしても残念ですが仕方ありません。
 そんなことを考えているとき、卒園生の保護者からまた一つ情報が入ってきました。小学校ではクラス全体の名簿もありません。もちろん電話番号も分かりません。連絡網もまちこみメールで済まされます。そういう中でPTA活動は大変だそうです。役員が決まらず、くじ引きで決めるありさまとか。ようやく決まった新役員に引継ぎをしなくてはならないので、学校に事情を話して電話番号を教えてもらって連絡を取ったそうです。そうしたら翌日、その人から学校になぜ個人情報を開示したのかと抗議の電話が入ったということです。クラスの児童を保護者全員で支えて行こうなどということは夢物語なのでしょうか。保護者同士の連帯など余計なものでしかない時代になってしまったのでしょうか。イワタを卒業した児童・生徒の保護者はずっと仲良しだという話を聞きます。園児には、お友だちというのは一緒に成長していける存在だと教えています。信じあえる人間関係をいつまでも大事にして言ってほしい、そう思って教育に当たっています。願わくは、保護者の方たちにとってもこの幼稚園で過ごした時間がお互いに温かいものであってくれますように。

[夏休みの嬉しい話]
 40日ある夏休みの前半があっという間に過ぎて行きました。お楽しみ会・お泊り保育が本庄西・本庄東で。その間に欠員となった教諭の採用試験、その他というよりこちらこそが本命ですが夏休み預かり保育・学童保育への対応等々、気ぜわしい前半でした。
 そんな中の一日、うれしい会話がありました。前置きになります。我が家で買っているアサマという名の甲斐犬系雑種が17歳となり、人間でいうと百歳を越えると言われます。老齢となって体を動かすのが大儀になってきました。7月10日のものすごい雷鳴を伴った夕立があり、おびえてパニックとなったアサマが土砂降りの雨の中小屋から出て柵の中を逃げまどい、抱きとめようとしたぼくの手にかみついたのです。牙で裂かれた甲から血が流れてたいへんでしたが、アサマは何とか落ち着きました。翌日病院に行ったところ、破傷風が心配だとのことで、注射を打たれました。おもしろいのはこの点で、予防注射は3回打つのですが、2回目は1カ月後、3回目はなんと1年後なのです。破傷風菌というのはのんびり増殖するのでしょうか。(写真は10年前のアサマです。車止めのくさりを往復10回跳ぶのが日課でした。若かった。歳を取るのは仕方ないことです。)
 前置きはここまでです。話は2回目の予防注射に行った時のことです。待合場所のベンチに座って本を読んでいたところ、「園長先生」と声をかけてきた女性がいて、顔を上げたら「昔娘がお世話になった○○です。」というのです。すぐに顔が浮かんで「ああ、泣いて登園してきて『園長先生に抱っこされたい』と言った□□ちゃんですね。」と応じたところ、「おぼえていてくれましたか。」と嬉しそうにいろいろ話してくれました。入園してひと月も経たないうちに父親の転勤で、遠くの県に転園していったのですが、新しい園になじめなかったといいます。「こちらの園では園長せんせいが子どもたちと遊んでくれました。園長先生は子どもと遊んでくれる人と思っていたんです。ところが、新しい園は大きな園で、園長先生は子どもたちの前に姿を見せないんです。娘は前の幼稚園がいいと何度も言いました。また、転勤で本庄に戻ってきました。」話を聞きながら、その女の子の姿が生き生きと浮かんできました。たしかにその頃、ぼくは園児とよく遊びました。おかげで仕事が終わらなくて、連日夜8時過ぎ、ときには9時になってしまう日々が続きました。でも、というか、そのせいでというか、園児の中にそういう存在としてぼくがいる、これはうれしいことです。今は、幼稚園の事務量が増えて、ぼくを引き継いだ園長はもっと大変でしょう。ぼくの時代はまだ牧歌的だったのでしょうか。
 この夏の思い出になるいい話が聞けました。


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■ 1学期が終わります

[幼稚園教諭を探しています]
 1学期の終わりに臨んで、本庄西幼稚園では危機的状況が生まれました。前回のこのコラムに書いた、本庄西幼稚園の閉園のニュースに伴う事態が生じました。閉園の知らせに集まった保護者が、担任を囲んで一体どういうことかと口々に問い詰めました。理事会・評議員会の審議内容や経理内容等を全く知らない担任たちは、ただ「すいません」としか言えず、精神的にすっかり追い詰められてしまいました。本庄東幼稚園で保育参観が始まっていて、そこから理事長が駆け付けた時はすでに終わっていて、残っていた保護者に、説明会を翌日行うことを伝えるだけしかできませんでした
 担任たちは、理事長・園長が受け手にならなければいけない内容で問い詰められた時、「自分たちにその件は答えられません。」と言ってくれればよかったと思います。でももう手遅れでした。保育への気力さえ奪われてしまった担任たちは退職願を提出してきました。説得したものの、翻意させることができず、後任を探さざるを得ないこととなりました。
 この夏休み中に後任を探さなければなりません。資格をお持ちで応募してくださる方をご存知の方は、ぜひ幼稚園までお知らせください。2年後に本庄西幼稚園は本庄東幼稚園に統合となりますが、身分を失うことなく本庄東幼稚園で勤務いただけます。どうぞよろしくお願いします。

[真間の手児奈の里を訪れました]
 高校生になったら漱石を呼んでごらんと言われた話はずいぶん前にこのコラムに書きました。受験勉強の中で『草枕』の「非人情」に救われたことを思い出します。苦しんでいる自分を非人情の立場から眺めれば、絵にもなる、詩にもなるというのです。もう60年以上も昔の話です。
 その『草枕』の冒頭、「山道を登りながらこう考えた。」に続いて、峠の茶店に来た主人公が女主人に思いがけない歌を紹介されます。二人の若者から求愛された少女が、つぎの歌を詠んで池に身を投げてしまいます
   秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾(あ)は思ほゆるかも
   (秋になるとススキの穂に置く露がすぐに消えてしまうように、そのように私の命も消えてしまうだろ うと思われます)
 この歌は『万葉集』にあり、大伴家持に恋した女性の歌なのですが、漱石は一人の少女をめぐる戀争いの歌として使っています。まだ命を懸けた恋など知らなかったぼくは、いい歌だなあと愛唱した思い出があります。
 同じ戀争いの話が『万葉集には』いくつかあって、その少女の一人が真間の手児奈です。真間は下総国の地名、今の市川市にあります。真間の手児奈は貧しい農家の娘なのですが、その美しさは際立っていたようで、その死後、伝説歌人と呼ばれた高橋蟲麻呂がその話を紹介した歌と、叙景歌人である山部赤人が「おくつきどころ(=墓所)」を詠んだ歌が残っています。
 ぼくの担当する万葉研究会は、毎年研修旅行を行っています。常陸・下野・上野・武蔵・信濃をめぐってきて、まだ関東の南部がのこっています。真間の手児奈の里と、ついでに伊藤左千夫『野菊の墓』(映画『野菊のごとき君なりき』)の舞台となった矢切村を回ったらどうだろうと考えてみました。「民さんは野菊のような人だ」のせりふは忘れられません。ぼくの同級生は『野菊のごとき・・』を3・4回も見て、結婚するなら矢切村からと決め、実際に美人の奥さんを探し出して望み通り結婚しました。矢切村にはいまでも民さんのような少女がいるのでしょうか。

 知人に真間に生まれ育ったという友がいることが分かりました。しかもおじいさんの代まで薬局を経営していてそのお店の名前が「手児奈堂」といったといいます。これ以上ぴったりな人はいません。研修旅行の下見に同行をお願いしました。
 7月の始め、晴れ渡った空の下、矢切村の『野菊の墓文学碑』が皮切りでした。茄子をもぎに行った政夫と民子がうっとりと眺めた光景が目の下に広がり、そこから矢切の渡しはすぐでした。周囲の偏見から却って恋を意識するようになった二人が、悲しい別れをしたのがここです。中学校に入った政夫は、舟で市川に向かいます。雨が降っていました。民子が黙って見送ります。ぼくは、その情景を心に浮かべながら、ようやくこの地に立てたという思いで江戸川の堤に立ち尽くしました。
 そこから真間の里まで。市川駅からまっすぐ伸びた参道が真間山という標高50mほどの岡の麓に至り、そこから石段が頂上の弘法寺まで私たちを導いていました。石段の石組みの一つが涙石と呼ばれて常に湿っていると同行の友が教えてくれたのですが、その日は全く乾いていました。
 その石段に至る参道の50mほど手前に、手児奈霊神堂という神社がありますが、手児奈がここに住んでいたわけではありません。手児奈が水を汲んだと歌に詠まれた井戸もあるのですが、しっかりした井桁は、本当かなあと思わせるものでもありました。
 ここで幼少期を過ごしたという友の思い入れは強く、ああこの友には故郷が存在すると、感動の思いで横顔を眺めていました。
 そこから国分寺跡へ向かいました。ここも丘陵の途中に付いた細道を上って台地の上に立つと、復元された山門が朱色に輝いていました。1300年の昔、聖武天皇は仏教の力で国を治めようとした。東大寺と、国ごとに造るよう命じた国分寺・国分尼寺に費やした莫大な費用はすべて民からの租税です。仏の力と租税の重さと、民にとってどちらが大きかったか、しかも、当時聖武天皇はあちこちに都や離宮を作るに夢中だった、ぼくは山門を見上げながらそんなことを考えていました。

 これで研修旅行の候補地は全部回りました。終わって大きなため息が出ました。国分寺跡を含めた真間の里は、まったくの住宅地の中で、しかも道路がとても狭い。センターラインのある幹線道路は真間の里を1本しか通ってなかったような印象でした。観光バスが乗り込む余裕はない、無理に訪れた場合、バスを遠くで降りて歩かなければならない。メンバーの年齢を考えるとほとんど無理ではないか。ここはマイカーで訪れる場所のようだ。
 ところが、真間出身の友は詳細なスケジュールを作成して、この場所はバスがここまで入って会員を下ろした後、○km離れた道の駅で待機してもらい、時間を決めて迎えに来てもらうと、何とか実現可能な案を作ってきました。どうしよう、今思案しています。

[キンギョソウの事]
 我が家の隣の1200坪ある畑が、所有者が亡くなり、宅地として造成されることになりました。ところが着手しようとしたら古代の遺跡がでたということで、道路にする部分を掘らなければならなくなりました。1m以上掘ったところで柱跡や住居跡がいっぱい現れました。1500~1300年前のものとの話だったようです。お宅の土地の下にもあるでしょうとのこと。それにしても人の背丈ほどもあるローム層が上を覆っていたなんて、ずいぶん浅間山の噴火活動が激しかったのだろうかと推測しました。
 ところで、発掘現場を眺めているうちに夕暮になってきました。気が付くと陽が陰ったあたりに赤い花が点々と咲いているのに気づきました。ぼくたちが子どものころキンギョソウと呼んでいたラン科の花です。今普通に言うキンギョソウ(南欧産)と違います。今正式な名前は何というのでしょう。でも、キンギョソウってうまく付けたなあと思います。緑の葉の繁みの中に本当に金魚が浮かんで泳いでいるようなのです。繁殖力が強く、シャガやホトトギスが追い遣られてしまうほどで、今年も随分間引きました。


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■ 消えゆくものへのレクイエム

[クチナシとヤブカンゾウが咲いて]
 幼児ルームの打ち合わせで登園してきた先生が、「梅雨が明けたようです」と情報をもたらせてくれました。え!まだ6月なのにと、信じられませんでした。農家の方は大丈夫なのでしょうか。真夏になって水不足にならなければいいのですが。ただ今日の暑さは並のものではありませんでした。市の放送で高温注意報が出たので外に出ないようにと注意があったとのこと、園庭の大きな桜の木陰が有効です。園児のカラー帽子は塩でまだら模様になっていました
 来週は『万葉集』の美少女伝説「真間の手児奈」の跡を訪ねる予定です。

[本庄西幼稚園が1921年度で本庄東幼稚園に統合となります]
   
  傍らに秋草の花語るらくほろびしものはなつかしきかな    若山牧水
   
 6月14日、幼稚園便りで、本庄西幼稚園の保護者に、来年度の園児募集がないことを伝えました。そして、2021年度で本庄西幼稚園は本庄東幼稚園に統合されるということも。
 週明けの月曜日、、保護者、特に今年入園した3歳児の保護者が、説明を求めて担任を取り囲みました。東幼稚園から駆け付けた理事長は、早急に説明会を開く旨伝えて、翌日19時から説明会を持ちました。

 説明会で保護者の関心は、まず次の2点に示されました。
 (1)連絡があまりに唐突であること。前から分かっていたはずで、何故昨年の入園申し込みの前に知らせなかったのか。 
 (2)統合(閉園)に至る原因・理由は何か。
(1)について。連絡は、初めは常に唐突にならざるを得ません。3歳児の募集の中止、ならびに閉園が決まったのは、今年の5月でした。それまで何年も園児数の増加に期待を懸けながら、ついにここまで来て、限界に達したということです。学校法人ですから理事会・評議員会の決議で決まります。5月でした。4月の入園前に知らせることはできませんでした。
(2)について。原因・理由の大本は、国の保育園行政にあると考えます。決してこの幼稚園の教育方針とか、環境や日々の保育にあるのではないことは、全国的に幼稚園が追い込まれていることから明らかです。
 国は、“女性の輝く社会”のキャッチフレーズのもと、女性の労働力確保のために、保育園を増設する政策をとっています。問題は、男性と同じ地位が保証されればいいのですが、埼玉県の統計では、働く女性の55%が非正規雇用です(男性は37.5%)。もうひとつ、賃金格差の増大の中、若い夫婦の多くは共働きを余儀なくされています。女性の労働力の確保、共働きの増大、それを可能にするため、国は保育園に膨大な予算をつぎ込んでいます。結果的に保育園は定員の120%まで膨れ上がり、幼稚園は特別な事情があれば別ですが、多くは園児数減に追い込まれています。本庄西幼稚園が東幼稚園に統合されるのも、本庄東幼稚園が認定子ども園となって保育園児を受け入れていく方向に向かうのも、同じ事情によるものです。
 そういう状況の中で、幼児は3歳まで母親の下で育つことが必要だという説などは、3歳児神話とレッテルを貼られて、一顧だにされない風潮が主流となっています。小1プロブレムと呼ばれる問題を解決していく方向性はどこから出てくるのでしょうか。

 
 次に、この幼稚園がこじんまりしていて、先生の目が行き届いているから、ここを選んだのにという声がいくつも上がりました。また、初めての集団生活の中で、この幼稚園が好きになり、先生やお友だちが好きになッたのにと惜しむ声も出ました。理事長は、卒園生の中にも、落ち込んだりしたとき、「ママ、幼稚園の前を通って」と言うという話を聞きます、卒園生の心の中にもこの幼稚園が生きていることも考えると閉園することが申し訳ないという気持ちでいっぱいになると話しました。
 さらに、この幼稚園は町の若いお父さんたちが、手弁当で、モッコを担いで整地をしてくださったところから始まったのです。梅林だった敷地に木造の園舎が完成した時の感動を語ってくださった方の話を聞いたことがあります。小学校の教員だった祖父が教え子たちの要請を受けて初代園長になりました。1930年(昭和5年)のことです。その方たちの思いの籠った幼稚園であってみれば、その方たちにどんな顔が向けられるかという忸怩たる思いに胸が熱くなります。

 この幼稚園への思いや思い出を語っていくときりがありません。それだけのものをぼくたちに与えてくれて消えて行こうとしています。先日の保育参観の後の保護者と理事長・園長の話し合いの中で、ひとりの保護者から、いざ閉園となる時、卒園生や町の人に向けて何か記念となるイヴェントを考えているかという質問が出ました。長い歴史を経てきた幼稚園ですから、その時々の記念になるような写真や、お泊り保育、運動会、お餅つき大会、音楽遊戯会等々の写真で、園児たちの素敵な表情を見てもらえるかと思っているのですが、何年・何十年前の写真でも肖像権の侵害になってしまうのか、これから調べて見なくてはなりません。90年の歴史をどのようにすれば見ていただけるのか、不安と楽しみとがこもごもです。

 しかし、今は思いに耽っているゆとりはありません。だまされたといきり立つ保護者が子どもを退園させるかもしれません。決してだましたわけでないことは上に述べたとおりです。でも何かを言うと火に油を注ぐ結果になってしまいます。日々の保育を実践していく中で、信頼を取り戻していくしかないと考えています。
 園児たちは先生や幼稚園が好きになってくれているのですが、保護者が理解してくれるまで、時間がかかりそうです。難しい時間を過ごしていくことになります。


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■ あわてないと・・・

[心余りて言葉足らず]
 『古今集』で、紀貫之が在原業平を評した言葉です。
   月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
など、失われた恋人を思って詠んだ歌というのは、『伊勢物語』の文章を詠まないとなかなかわかりません。それだけに業平への愛着は強まるのですが。
 ここで、業平論を展開するのではありません。前回の理事長コラムから1ヵ月が経ってしまい、いろいろと書きたい思いがありながら、そのゆとりがなかったことを思った時に浮かんだ言葉なのです。実は今日、これは是非書かなければと思う話を聞きました。県南のある大きな幼稚園の園長さんの話で、今年の新入園児は泣かないというのだそうです。ぼくは、前回のコラムに書いたことを思い出し、「幼児は、泣いても効果がないと分かると泣かなくなるという研究結果がある」と紹介しました。「母親との絆の在り方が変わってきたのだろうか。」というと、「考えられる。」との答え。
 母親が変わってきたのは事実だと言います。ちょっとした怪我でもすぐに賠償問題となったり、訴訟の話が出たりで、その幼稚園では怖くて子供を自由に遊ばせられなくなっているとのこと。確かに遊ばさなければ怪我はしないでしょう。でもそれでいいはずはありません。
 先日、入園前の幼児を対象とした体操教室で、講師の先生が、子どもを母親にお姫様抱っこをさせて、まず左右に揺すらせ、次に飛行機だとぐるりと回らせ、そのうえで、「最近こういうことをすると怖がる子供が増えています。」と言いました。或る短大の幼児心理のベテラン教授が、「父親に、子どもをタカイタカイしてみてくださいと言ったら、父親が、タカイタカイってどうやるのですかと質問してきた。」と言いました。わが幼稚園の園児と比べて、信じられないような話です、と言いたいところなのですが、今朝、ぼくの周りに来た園児たちに試してみました。手と足だけ持って(体を支える手を添えずに)大きく弧を描くように3,4回揺すると、嬉しそうな顔をする子より、恐怖で顔が引きつるような子の方が多いのです。初めての経験なのでしょうね。体を動かして遊ばない親子が増えているということでしょうか。
 かつて、身体を動かすと疲れるという幼児がいることが話題になったことがあります。鉄棒に飛びついただけで腕を骨折した高校生もいました。その延長に縄跳びの縄が足にかかって転ぶと、顔面を地面に叩きつけてしまう子がおり、歩いていて何かに躓いて転んでも手が出ないで怪我をしてしまう児が珍しくないという状況があります。
 これは生きて行くうえで身を守る最低限度の反応のはずです。本当は、身体を動かすことは快感なのに、それを知らずに成長していく。未来を考えると、少子化も問題ですが、こういう子どもたちが時代を背負うことの方がもっと問題なのではないか。英会話や漢字や算数を詰め込むより、こういう基本的な身体の機能を身につけることの方が、今の幼児には必要とされるのではないでしょうか。

[遠足で動物園に行ってきました]
 学生の頃、檻を隔てて、遠くも見つめるような悲しみをたたえた目のシベリア狼に出会って、何度も動物園に通ったことを、このコラムに書いたことがあります。今年も何かに出会えるだろうかという期待で訪れました。動物を一つずつ見て行ったら時間が足りません。今年は西園からにしました。たてがみ狼というイヌ科の動物がいましたが、「オオカミではありません」とのプレートがかかっていました。
 今年はマムシ・シマヘビ・アオダイショウの模様をじっくり頭に入れてきました。ヤマカガシがいなかったのが残念でした。
 ハイライトは、爬虫類館を出たところで、「3時から小鳥館で、ライチョウの話があります。」の放送が聞こえてきたことです。ぼくにとって、山の動物と言えば、まずカモシカであり、ライチョウなのです。時間はもう5分前です。ぼくは速足で小鳥舎に向かいました。途中で職員とすれ違いましたが「やあ」といっただけ。小鳥館ではもう話が始まっていました。立山連峰で何十年も雷鳥(ばかりではないでしょう)の生態を追っている研究員が、ガラス壁に大きなパネルを張って生息数について説明していました。雛が孵る時と、高山植物が開花する時期とが一致すること、それが雷鳥の数を維持するための条件なのだそうです。花は栄養に富んでいるのです。グラフを示して、年によって多少の増減があるものの、大体一定数が生息していると言いました。うれしい話でした。
 話が終わって質問の時間があったので手を挙げてみました。「後立山連邦では、温暖化の影響で、狐が山の上まで登って来て雷鳥を捕食している、その結果数が減ってきていると聞きます。立山には狐はいないのでしょうか。」その質問に対して答えは意外でした。立山には2ファミリーの狐は確認されている。それ以上にキャパシテイはないようだ。からすも麓に餌があれば2時間もあれば下っていける。雷鳥の数に影響するほどのものではないとのことでした。
 園児の集合時間が迫って来て、時計を気にしているぼくを見て、スタッフの一人が、他の人たちよりも先にぼくにお土産を差し出してくれました。立山のパンフレットと緑茶のボトルが入っていて、そのビニール袋の写真が、雨晴海岸から見た立山連峰でした。ぼくの家の階段の板壁に貼ってある風景と同じで、弥陀ヶ原を前に、立山の雄山、大汝・別山と続いてさらに剣岳から毛勝三山へ。海からそそり立っているその雄姿は絵葉書的迫力で、太宰治の『富岳百景』ではないけれど何だか気恥ずかしくなるほどのものです。雄山に登りたかった妻は、気が付いたら剣への登山路を歩かされていたと、今でもぼくを恨んでいます。ライチョウ沢の天幕に戻った妻はもうふらふらでした。今でもその時の話が出ます。剣を登頂することの方が大変なんだよとなだめています。
 もう1枚の写真は、ぼくの母校の山岳部が、4年前に出した部誌の表紙です。温暖化への危機感を表わしたもので、これが送られてきたとき、その問題意識をうれしく思いました。

 遠足から帰って、園児は動物の絵を描きました。実物を見た感動は大きく、年少児のY君はキリンの頸はすごく長かったと、描き始めて自由が帖のいちばん上まで頸を描いてしまい、頭を描くスペースがなくなってしまいました。パニックになったY君に、担任が頸の上部を削って、Y君は頭部を描くことができました。


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